昭和四十六年六月二十一日 朝の御理解


X御理解第四十五節
「世に三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。
とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど、大声で叱ったり手を振り上げたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ」


 神様のお働きの素晴らしさを、いわゆる無限大に受けられる、いわば無一物の中からでも、予期以上のおかげが受けられる事がわかる。ですからそういうおかげが頂きたいと、これは誰しも願う事、小さいおかげより、やはり大きなおかげが良い、大きなおかげを頂きたいと思う。いわゆる限りのない、尽きる事のないおかげに触れたいと思う。その為には世に三宝様を踏むなという、三宝様とは穀物の意とありますね。穀物、いわゆる米とか麦とか、いわゆる五穀のこと、成程私ども子供の時によく言われましたね、御飯なんかこぼしとるのを、それを踏み付けると足が頭につくぞとかね、目が飛び出るぞとか言われました。食べ物が、例え畳の上に落ちておりましても、おし頂いて拾うて食べる事を教えられたものです。今どきはそんなこと教えませんね。不衛生、そんなもの拾うて食べよったら、かえって怒るのが、やはり今のパパやらママですね。
 ああ、そんなもの食べちゃいけんと言った様なもんです。時代がいろいろ進んで参りますと、それは成程、それが本当と言う事になるか分かりませんね。ですから、私はここで世に三宝様を踏むなと、何故そういう穀物を踏むと言うような、穀物を粗末にするという様な事は、目がつぶれると言う程しに言われたかと言うと、これが命の分になるからです。命を保たせて頂く事の為に、どうでも非常なものだからです。いうならその穀物のおかげで、命を永らえらせて頂くその事を忘却して、それを踏み付ける様にしたんでは成程、妙荷がつきるぞ、罰が当たるぞと昔は言った訳ですね。
 そこで私は思うのですけどもね、成程信心させて頂いて大きなおかげ頂いとる、大きな御用にも立ちたい、世のお役にも立たして頂きたい、それにはやはり大きな御用を頂かして貰い、大きなおかげを頂かして貰い、誰よりも偉うなりたい、それにはやはり大きな力を頂かねばならん。ですから先ず大きな願いを立てる、そうですよね。ただお役に立ちたい、お役に立ちたいと言うても、力がなかったらお役に立てませんものね。ちよぃと大坪さん百万ばかり要るがと、はいお使い下さいと言えれる為には、百万の金を持っとられねば言えませんです。こういう御用がありますが言う、例えば力仕事がある場合は、それを持って動かせるだけの力を持っておらねば、ああそうですか、私が御用に立たせて頂きましょうと言うて、それを持つことすらが出来ません。いわゆる痩せっぽでは駄目なんです。やはりお相撲さんになる人と言うものは体が大きい、背も大きかれば縦横大きいい、その大きい人がいよいよ力に業に精進を致しますから、いわゆる力士としての力業も身に付けて行く事が出来る。やはり痩せて小さい人が相撲取りを志望する人はないですね。それは幾ら鍛えても、もう力が知れとる。お役に立ちたい、お役に立ちたいと幾ら祈ったとて願ったとて、小さい心の人が幾ら願ったってね、御用は頂かれません。ですから私は先ず豊かに大きくならんといけんと言う事です。豊かに大きうならせて貰う、その豊かになり、その大きい心でです、お役に立ちたい、お役に立ちたい、立ちたいならば、いよいよ力を受けて行く事の為の精進、又はそれを頂いて行く為の、いうなら業を覚えて行くと言うこと。信心させて頂いて力に業に、やはり工夫さして貰うて、力を頂かして貰うて、そこんところのおかげを頂いて行く、どういう業が必要か、どういう在り方にならして頂いたら力を頂くかと。
 今日は世に三宝様を踏むな、三宝様を踏むと目がつぶれると、そこんところに一つ焦点を置いて、皆さんに聞いて頂きたい。なぜ三宝様を踏むと目がつぶれるか、三宝様は命の根だからです。大事にする、そこでその三宝様にも匹敵するもの信心さして頂いて、おかげを頂きたい、しかも出来るなら大きなおかげを頂きたいと願う。そのおかげを頂いて行く事の為に先ず大きな願い、大きな心、豊かな心を頂かして貰う事に精進する、その心がです、いうなら三宝様言わば大きなおかげを頂く基なのである。小さい受けもので大きいおかげ下さいと言ったってそれは理が通らん。そこで大きい受けもの、大きなおかげ願うなら、大きな受けものを用意せなければならない、これは分かりますね。
 そこで大きな受けものと言うのは、どういう様にして出来て行くか、世に三宝様踏むなと言われるが、信心させて頂くものは、信心の命の根であるところの穀物だから、穀物を大事にする様に、信心の命と言うかね、根と言うか、大きなおかげを頂かせて頂く、その基にもなる様なものを、粗末にしては大きうもならなければ、力にもならない事が分かりますでしょう。小さい事が心配になって堪らん、小さい事がいらいらして堪らん、たったこの位の事で自分が腹が立っておるとは、何と小さい自分であろうかと、自分を思う事があるでしょう。小さいなあと、自分ながら辟易する位、何と小さい芥子粒な心であると自分を先ず知りますね。
 信心さして頂いて、教えの鏡の前に立たせて頂くと、自分の心の小さい見苦しさ、それが分かって来る。だからそこから、これでは成らんと心の上に、清める事の上にも、改まる事の上にも、精進さして頂く内にです、段々心が大きくなる、心が段々豊かになって来る、信心がない時はもうこの位の事が腹が立って堪らなかったものが、腹が立たん様になるどころではない、その事にお礼が言えれる様にまでなる、人間の心が大きくなって来る。様々な問題がありますね、いわゆる様々な難儀に直面致しますね、その難儀そのものが、その事を以て改まる、それを以て研くと言う事になりますと、その問題に依って、その難儀な問題によって研かれ、同時に改まって行く事ができる。その問題を通して豊かに大きくなる事が出来る。して見ると、それは心をいよいよ育てて呉れるところの三宝様である事が分かる。その難儀な問題こそが、いよいよ心を豊かに大きく、しかも美しうして呉れる。心の成長を願わして貰う、心の成長が肉体の三宝様、いわゆる穀物を以て成長して参ります様に、心の成長はそういう三宝様、いわゆるそれを難儀とも言ってよいでしょうね。嫌な問題と言うてもよいでしょう、嫌いな問題と言うてもよいでしょう。食べ物でも偏食してはいけない、いけませんのに信心の心の成長にも偏食をしよる、あれは良いけれどもこれはいけんとか、いけない、それはあります、好き嫌いはありますけれども、若しもその嫌いなものを、大事にして行こうと言う様な生き方、人間関係なんかそうですよね。いやと思うたら嫌だ、本当にこう頭を振り切りたい様な時がありますよね、嫌だと言いたいのがありますけど、その嫌だと思うその嫌なもの、そのものを穀物とせなければいけん、三宝様とせなけりゃいけない、それを踏み付ける様な事をするからめだつので、ようやく信心によって、いわゆる信心するものは肉眼をおいて心眼を開けと仰せられるが、天地の事は今日聞かせて頂けば頂く程、心の目が開けて来る。ああ難儀と思うておったのは心外であったとか、こういう難儀が自分の上にどしてと思うておったのが、これの心の目が開けて来ると、その事もまた有り難いと合掌して受けて行く心が生まれて来る。心の目が開けて来た、ようやく心の目が開けかかって来とるのに、嫌な問題が起きて来るとです、その嫌な問題を嫌だと思うて、踏み付ける様な事をするから、漸く細々目が開きよるその目が又閉じかかってしまう。心の目を開かして頂いたら、玉水の先生が仰しゃつている言葉の中に、金光教は生きながらにして極楽とこう言うとられる。
 それは心の目を開かせて頂くから、あれもおかげ、これもおかげと思う。そのおかげの中にあるから極楽です。その心の目がいわゆる肉眼的な見方をするから、それは腹の立つ問題であったり、苦い問題であったり、臭い問題であったりするのです。その苦い問題を、その臭い問題を、それこそ心の胃腸を丈夫にすることの為に、それこそにんにくを頂きよる様な積もりで、これは千振でも頂きよる積もりで、頂く心にならして頂くところに、心は健全になって来る。心の胃腸は健全になれば、心の五体のすべてが健全になって来る。何を頂いてもへこたれない、何を頂いても美味しい、何を食べても美味しい、美味しい、美味しいと言うて頂く、いうなら有り難い、有り難いで受ける。だからいよいよ心の成長を見る事が出来る。心の目は開けて来る訳である。だから世に三宝様を踏むなと言うこと、穀物の意であるのを、それが命のもとに成るのであるから、それを踏んずけると罰が当たるぞ、目がつぶれるぞと言う風に教えられる様に、信心さして頂くものの三宝様とはどういう事か、それこそ三宝様にでも匹敵する様な、問題をここに抱えながら、持ちながらそれを踏み付ける様な事をする、お粗末なことをする、勿体ない話である。
 昨日も或る先生と話しておりました。どうもこの頃はその実意丁寧の化け物の様なのが多くなって来た。頭だけは畳にすりつけてから、はーっと言うてから、本当に頭がさがりよるかと思うと、下りよらん証拠に一つもおかげ受けていない。ただ形だけがです、形だけが実意丁寧になって、いわゆるなり下がって行きよるものをお道の信心の中に感ずる。実意丁寧、実意丁寧それは、成程お道の信心の生命だと言ってもよいでしょう、ですからそれこそ言葉使いも、あなた、こなたと言うて、如何にもよう拝み合う様にはしておるけれども、心が実意丁寧でない。その証拠に力も無からなければ、おかげもよう受けていない。
 私は祈る前提としてですね、稲穂に例えましょうか、それこそ生々として上にすーっとこう稲穂がのびますね、そして実が入って来るに従って頭の穂が垂れて参ります、だからね今日のここのところに仰しゃつとられる様に、実る程かがむそれが稲穂です。実るほど屈んで通れと言うのである、もう屈まなければおられないのである。実が入って来たら、それを実っとらんのに如何にも成就せよとか、実意丁寧を取次を経て、いわゆる実意丁寧の真似の様な形になって来てしまって、空であって頭だけ下げとると言う様なものであって、これもう空穂と言うのです。空穂ですから成程おかげが受けられん筈です。ですから私どもの場合、やはり思い上がりが強いと言われる位にいっちょ、おかげを頂いて見なければいけん。
 いうならば慢心は怪我の元であると、慢心が出るとおかげを取りはずすぞと仰しゃるが、それこそ慢心と思われる様なおかげを頂かにゃいけん。慢心が出る位なそれこそ自信満々で、おかげを頂いている人達のおかげを頂いた話をしますと、如何にも慢心の様に見えて見えますね、だからこの頃はあれがちっとおかげ頂いたけん、どうも頭が高うなったと、如何にも慢心、人を見下げた様な話をすると、いう風に言われますけど、そういうおかげを頂いて見なきゃいけません。お互い慢心の出る様なおかげを頂きたい、そしてそれが段々実って来ると、もう自ずとこれは自ら頭の下がってくるもの、このまま行けばおかげが受けられる。稲穂がさっと頭を天に向けておる様に、もうこれは時間の問題、これが何日か後には黄金の波を打たせる程しの、実りになる事が分かっている。そういうある意味で前展、道すがらの場合は、それがあっても良いと思いますかね。それこそ慢心が出る位な、自慢話がしたい位な、おかげを頂きたい。 先ず、そしてそれはね実が入って来ればくる程に、自ずと頭の下がって来るもの、本当の意味に於いての実意丁寧、神信心ということの過程に、問題を問題としてと言う、だから問題を問題とせず、問題を三宝様として頂く生き方、成程、問題を問題としてですよ、成程これが三宝様と気付かして貰い、これが御神意と気付かせて貰えば有り難い。けれども問題を問題として、いよいよ問題を大きくして行く様な、問題を問題として、いよいよ問題が解決しない様な事になっておる様な事ではね、如何にその問題を三宝様として見ていない。いわゆる肉眼だけで見ている様な、そんな事になるんだと言う事になる。
 皆さん信心する者は、肉眼をおいて心眼を開けよと仰せられるが、心の目を開かせて貰わねばいけません。信心させて貰うと何かなしに目が開けてくる、何かなしに有り難うなって来る、そして今まで分からなかった事がおかげと分かってくる様になる。いうなら目がうっすらと開いて来た証拠なのである。だから、いよいよその目をはっきり、すっきり開けさせて頂く為には、三宝様を踏む様な事があっては折角開きかけた目がまたね。そこのところを頂いて行かにゃいけん。
 昨日、午後の奉仕をさせて頂いている時でした。電話が或るところから掛かって来た。それで聞かせて頂いたら成程、びっくりする様な、本当にびっくりする様な問題、いろいろお願いしました、言う事で電話でお取次ぎさせて頂きよったら三十分程して、親戚の方達と子供さん達が又その事でお願いに見えました。まあ実際に話を聞けば聞く程に、やはり難儀な問題、もうそれこそ涙ながらにお願いをなさいます。そこで私はお取次させて頂いて、これはもう本当に、これはもう心配いらんと言うたって、心配せずにおれんごとある問題、人間と言うものは、いろいろな問題が起きて来ますと、その事の事態と言う事をですね、いろいろに想像をする、空想をする、そして真逆と言うこと、最悪のことを考えがち、最悪のことを考えなければ居られない程しの問題、その問題、思いだせば出す程涙の出るのは当たり前、どうなるだろうかとこう思う。そこで電話でお願いをした、また親戚の方と一緒にお願いに見えた。そこで私しが、その方達が帰る時申しました、心配する心で信心せよと仰しゃるから、一生懸命お願いしなさい。家に帰ったらお灯明を上げなさい。そして一家中の者が一生懸命拝みなさい、お願いばしなさい。心配はないから一生懸命で一家中でお願いしなさい、お灯明上げにゃいけませんよ。そして一生懸命拝みなさい。そして私はこう申しました。帰ったらお母さんに親先生は安心しとりますよと、そういう大変な問題、そういう大変な心配ごと、一つ問題、それで心配するのが当たりまえ、だからと言うて心配するなと言うて、心配は下から下から湧いて来るもの、そこでね一生懸命拝みなさい、一家中の者が拝まにゃと言う訳なんです。不思議ですよね、どんなに心配があっても一生懸命御祈念をさして頂きますとね、その心配が段々薄らいで来る。ところが、あんた方は心配するなと言うても心配せにゃ居られんから、その心配する心で信心せよと仰しゃるから、心配する心で一家中で一生懸命拝みなさい、けど帰ったらお母さんに言うときなさい、親先生は安心しとりますからと、言うことを言うときなさい。それを聞いたとたんにですね、三人の人達がほっとした様な顔をしますね、親先生が安心しとりますと言われるんじゃから、これは大した心配事じゃ無い事と思うのじゃないでしょうか、それでもやはり心配です。
 帰ってから、ところが、そういう大変な問題をもう、お母さんはもう、しっかり信心は出来とりますからね、親先生はどう仰しゃつたの、親先生はこうこう仰しゃつた。それならもう心配する事はいらんばいと言うてお母さんが言うた。さあところが、そういう問題を聞いて親戚の者が集まって来てです、こういう問題を放っておくちゅうて、いくら金光様、金光様と言うても放っとく訳にはいけんじゃんの、そげな事じゃいけんと言うて、頼むところに頼まにゃいかんと言う様な、皆が言うてきますが、どうさせて頂きましょうかと言うて電話が掛かって来た。その電話が掛かって来ておる最中にその事の電話がありました。また電話が掛かって来た、丁度上野先生が電話が掛かって来た時、今こうして電話が掛かって来たと、そしたら間髪をいれず電話が掛かって来た。そしてその事は心配はいらぬと言う電話であった。
 その辺は何とも言えん神様の演出を感じます。そういう信心のない者が聞けばびっくり仰天する様なものをです、お取次頂いて、お取次の働きに依って、それは心配で堪らない事だけれども、心配が半減した、いやその心配がなくなった。親先生がそう言うて下さるならば安心と言うことになって来た。いうならばお取次頂いて、小さい心が大きうなった訳です、そこに安心がうまれた。だからその問題そのものは、それは難儀な問題でもなければ気に苦にする問題で無くて、それはそのままが三宝様である事が分かる。そしたら又一時間ばかりしましたら、お母さんが本当にお礼にでて参りました。広大なおかげを頂いてと言うてお礼に出てきましたから、私が申しました。さあこれからの事もまた大事なんだ、そのことが起こったこういう事の為に、誰か責任、誰がこうだから、誰がああだからと、決して人の事を言いなさいますな、もうそれこそ黙って祈れ、そういう問題を引き起こした事は、それはとりも直さずその中心である私自身の責任として、いうなら漬物が臭うなったと言うけれども、それは重し石が軽かったから、漬物は臭うなっとるとじゃから、重し石自身が軽くなっとる事実をね、自分の心につきつめて、そこは神様に詫びて行く以外にない、決して問題が解した。
 だから今後、こういう問題が起こらない様に、あんたも注意しない、こげな事でいかんと決して注意どもしなさいますな、それが自分の心に治めて終う、それだけの問題が心に治まる程しのものが、心がおかげで大きくなったと言う事になるのです。心と言うものはね、そういう風にして大きくなって行くもの、心の受けものと言うものはその様な場合に、大きくなって行くものなんです。ですから之がもっともっと大きくなる為に、よしそれがどういう問題であっても如何にそれを合掌して受けて行くか、元気な心で受けるかと言う処に先ず焦点を置かなければならん。ために自分自身が本気で頂かして貰わなければいけん。そういう内容がです、段々いわゆる三宝様を踏みつける様なこと、三宝様をいわゆる、生の宝おかげの元なんです。
 それが、大きなおかげが頂きたいとこう言う、また大きな御用もさして貰いたいと思う。それを言うたり思うたりしとったって、心自体が痩せっぽっちでは力は出はしませんよ、いくら気張ったところで、体が大きいなりか大きいからこそ、本気で修行させて貰ったら、力も出来る業も覚えて行くように、私どもの心は先ず大きうならにゃいけん。豊かにならにゃいけん。その大きな豊かな心で様々な信心の業を覚えて行く、その様にして肉眼を置いて心眼は開けて行くもの。心眼を開かせて頂いたら、そこにあるものは全ては神愛である、それこそ湯川先生の言葉を借りると、一切合切が喜べれば、一切合切が自由になると言うおかげ、自分の都合の良い事ばかりを喜び、都合の悪い事は不足を言うのは、まだ本当の神様が分かっていない。都合が悪い事も、喜ぶ様になれば一切が自由になる。一切合切が喜べれば一切合切が自由になる。金光様は、生きながら極楽という事になる。お互い極楽の世界を目指さなければいけん、この世に。それこそ自分の周囲のすべてが、仏様であり、観音様であり、すべてが神愛である。そこの中に座らせて頂くのであるから極楽であります。
 今日は四十五節、世に三宝様を踏むな、三宝様を踏むと目がつぶれると言うところを、焦点を置いて聞いて頂きました。私どもの信心、信奉さして頂くものの上に誰だって願わん者はなかろう。大きなおかげを頂きたい、そして大きな御用にも立ちたい、ところが大きなおかげも力量不足では。お役に立ちたい、神様がそれでは使うては下さらん、為に私どもの願いとして先ず大きうならにゃいかん、豊かにならにゃ。それを私は三宝様とは穀物の意と説明しとられるが、三宝様とは言わば、それは自分の肉体を保たせて頂く事の為のものですから、大切にするのである。様に自分の心をいよいよ育てて呉れるもの、いよいよ表すことの出来る為に、大きなおかげを頂かして頂く事の為に、私どもの心は育たなければならん。育つための穀物にも等しいもの、それをそのまま三宝様と頂いて、それをおし頂いて行きよる、おし頂いて行く姿勢を作っての、信心にならなければならんと言う気がしますね。  どうぞ。